The Doggish Days
20030822
LIndowsは本物か?
にわかにLindowsが盛り上がりつつある。Lindowsというのはご存じの通り、Windowsに操作系を似せたLinuxのクライアント用ディストリビューションだ。「操作系を似せた」とは言っても、実際にはシェルのKDEの特徴でしかないのだが。
今回、オン・ザ・エッヂ改めエッジが発売するLindowsは、シェルの使い勝手よりはそのバンドルソフトとビジネスモデルに注目すべきだろう。ATOKが標準添付され、テキスト入力マシンに使いたいと思っている人はこれだけでも試す価値がありそう。ワンクリックでフリーウェアやシェアウェアをダウンロードして利用できるというクリックアンドランサービスに加入すると、マイクロソフトオフィス互換のサンマイクロシステムズ製スタースイート日本語版がついてくる。クリックアンドランは年間9800円だから、これだけでも十分もとは取れるということか。
エッジはホワイトボックス系を中心にしたPCベンダーに、10万円でライセンスを供与するという。何千台にインストールしようが、何枚台だろうが、10万円ポッキリ。マイクロソフトの高額なライセンス料と比べるのも馬鹿馬鹿しい。エッジはこの値段で儲けようとは考えていないからだ。かといって、かつてニューエコノミー理論でもて囃された収穫逓増をまたも蒸し返そうというわけでもないようだ。安価に製品を放出してシェアを奪おうという戦略ではなく、OS自体のライセンス代は安く抑え、かわりにクリックアンドランの年間サービス料(9800円)で儲けようという腹だ。
IT業界の暴れん坊将軍(と最近名づけることにした)、堀江貴文社長は「ビル・ゲイツはいまだに『ソフトに値段を付けて売る』という昔ながらのモデルから脱却できていない。インターネットのことが全然分かっていない」と言う。インターネット時代のビジネスモデルの本質は、まず第一にトランザクションを押さえること。そして第二に、関わる企業群がウィンウィンの関係を作ることだという。
Lindowsはなるほど、その二つの原則を忠実に実現しようとしている。OS単体の代金で儲けるのではなく、クリックアンドランというサービス——すなわちソフトウェアのトランザクションに従量課金する。
そして、マイクロソフトがかつてサードパーティのソフトハウスを蹴散らしていった(たとえばネットスケープはその代表選手。あるいはユードラとか、名前も忘れたけれど、デフラグのツールを作っていたメーカーなど)のとは異なり、ソフト会社とOSメーカーがどちらも儲かる仕組みをクリックアンドランで作り上げようとしている。
「これはiモードと同じモデルでは?」と堀江社長に聞くと、「まったく同じだね」と答えた。NTTドコモがOS供給のエッジ、コンテンツプロバイダーがクリックアンドランに参加するソフト会社、そして携帯電話端末メーカーがPCベンダーというわけだ。
iモードという類いまれなビジネスモデルは、インターネットの本質をきわめて鋭く追求している。このモデルをパソコン業界に重ね合わせようという今回のLindows戦略は、意外に成功するかもしれない。
20030618
フリーな無線LANの実現に向けて
フリーな無線LANを実現しようという動きはいくつかある。メルコのフリースポットや、広義で見ればNTT東日本のMフレッツもその枠組みの中にとらえることができるだろう。だが米国のニューヨークやシリコンバレーで市民が行っているような市民参加型ホットスポット運動は、日本ではまだ萌芽の段階だ。
注目すべきムーブメントはいくつか起き始めている。京都を拠点に試験的に行われている「みあこネット」もそのひとつ。NPOが運営主体となり、利用者は無料だが、アクセスポイントを提供する側は月額4700円を支払う——という枠組みで公衆無線LAN網が作り上げられている。
みあこネットがインテルとの協力体制を作り、さらに試験期間を来年末まで1年間延長すると発表した。発表の席上、NPOの代表幹事である高木治夫氏は、こう語った。
「参加者がカネを払って祭りを楽しもうという『ぎおん祭り』モデルでこれまで運営してきた。現在はさらにそのコンセプトを発展させ、『客間の亭主』モデルを打ち出している」
なぜインフラの利用者が無料で、提供側がカネを払わないといけないのか?という疑問は誰にでも生じるところ。それを「祭り」になぞらえて説明していたのだろう。客間の亭主というのは、無線LANのインフラを、客間に飾ってある生け花やお茶、会議室のプロジェクタ、プリンタ付きのホワイトボード、観葉植物などになぞらえ、ホストがゲストを招く際の「もてなし」の一環としてとらえようというコンセプトだ。
発想としては、きわめておもしろいと思う。
日米の違いについても、若干の思いが至る。
米国では、市民がインターネットの自由を取り戻す手段のひとつとして市民参加型の公衆無線LAN網が考えられている。日本で同様の運動を起こそうとした場合、「市民の自治のためのツール」という発想は生まれ得ないのだろうか? 「客間の亭主」というモデルは興味深いが、そこには「自分のゲストだけではない、不特定多数の市民たちにみずからのインフラを開け放す」という発想が抜け落ちているようにも見えるのだが。
20030616
反監視社会運動が盛り上がらないワケ
反監視ムーブメントの取材と雑談。
「どこかのメールマガジンで監視カメラの是非を問うアンケートを採ったら、75%ぐらいが『監視カメラに賛成』って答えていた。無条件反対はほとんどいない。『見守られている気がして安心する』と答える若い女性もいたとか」
「インターネット社会が到来し、いつでもネットにつながっている『つながり感』という新しい感覚が出現した。ユビキタスになると、その傾向はいっそう強まるはず」
「先日、プログラマの友人とファミレスで会ったら『ああっ、PDAを忘れてきた!』って大騒ぎするんだよ。何でそんなに騒ぐんだ、住所録を確認したいのか?って聞いたら、『ネットにつながってないと不安なんだ』って真顔で答えた。いつでもネットにつながっていたいという気持ちを持つ人が増えていて、それは監視カメラで社会に接続されているという感覚につながっていくのかもしれない」
「そういう感覚を否定すべきではないよね。安心感は確かに大事なことだし、社会としての犯罪抑止、セキュリティを否定すべきではない」
「でも日本の市民運動的発想だと、監視カメラはけしからんという結論がまず最初に存在し、そこからいきなり短絡的に『だからコンピュータ社会は陥穽がある、問題だ』という主張になってしまう」
「セキュリティをどうマネジメントするかという議論が生まれないんだよね〕
「その一方で、住基ネットや監視カメラを推進している行政の側には『国民に利便性を高めるためにどのようなシステムが必要か』という考え方は欠如していて、ただ現在こうしたシステムが存在するので、それをどう使ってやろうかという発想から監視カメラや住基を導入している。箱モノ行政の考え方が抜けていない」
「そして反対する側は反対する側で、そんな危ない道具は捨ててしまえっていう短絡的な主張を言いつのるだけ」
「ナイフを見つけたから何かを切ってやれ、っていってる政府と、ナイフは危ないから捨ててしまえ、っていう市民運動。永久に生産的な議論にはいかない」
「ナイフをどう使いこなすかという議論にならないんだよね」
20030606
パソコン買い換えで生産性向上って本当?
インテルに取材。
PCを買い換えることにより、TCOを削減して企業の生産性を上げることができるというのが、インテルの主張だ。まず第一に、セキュリティ関連ツールなど、スタッフが使うデスクトップPCがバックグラウンドで動かしているソフトウェアは年々増え続けており、負荷も上がり続けている。古いPCではこの負荷によって動作速度が遅くなり、生産性が低下する。
第二に、古いパソコンをリプレースしないと、同じ時期に3〜4世代のプラットホームのPCがオフィス内に存在してしまうことになる。これはサポートコストの増大につながる。
疑問はいくつかある。まず第二の「複数世代の存在によるサポートコストの増大」だが、これは「最新のOS、チップセットを使ったPCを常に導入し続ける」という前提があってこそなのでは? Windows XPを導入せず、当分の間Windows 2000を使い続けるのであれば、世代数は増大しないのではないかと思うがどうだろう。
もうひとつの疑問は、PCの負荷の減少が、本当にビジネスの生産性の向上につながるのだろうか?という疑問だ。
オフィスで使っているパソコンの調子がおかしくなると、近くにいる「パソコンマスター」(どこの会社にも必ずいるパソコンに詳しく親切な人)に頼んで直してもらう。パソコンマスター氏はボランタリーにこの仕事をしており、自分の仕事が遅れる原因になる。PCをリプレースし、集中管理することで、こうした見えないTCOの増加を食い止めることができるというわけだ。
米国の会社らしい発想というべきか、インテルの発想は見えないTCO削減を徹底的に行おうとしている。労働者のすべての労働、作業を数値化し、TCO増につながる負担を減らし、「これだけの作業を減らし、TCOをこれだけのパーセンテージ減らしました」と数で見せていくわけだ。
しかし日本の会社では、数値化できない部分のムダや非効率なコミュニケーションが、ビジネスの発想の源泉になったり、円滑な社内コミュニケーションを進めるための潤滑油として重視されてきた。そうした社会において、インテルの考えているようなTCO削減モデルはどれだけ適用できるだろうか。それとも日本の企業文化も徐々に変容しつつあるということになるのだろうか。
エクセル誌という日本独自の雑誌ジャンル
「エクセル系雑誌」と呼ばれるパソコン雑誌のジャンルがある。PC21(日経BP)とドットピーシー(アスキー)、ビジネスPASO(朝日新聞社)、PC MODE(毎日コミュニケーションズ)が「エクセル4誌」と総称されているらしい。
その中の一誌の編集長とお会いする機会があった。エクセル誌の主たる読者層は、平均年齢45歳のビジネスマン。男性が85%を占める。上限は55歳前後。その年齢を過ぎると、がたっと読者が減るという。そのあたりはきわめて明快だ。定年退職してまでエクセルを使いたいと思う人などいないのだろう。
最近の興味深い傾向は、エクセルの「ワード化」現象だという。つまりエクセルをワープロソフトとして使う人が増えているのだ。エクセル誌が「エクセルをワープロとして使う」という特集を掲載したところ、完売しそうなほどの勢いだったそうだ。ちなみにそれに次いで人気があったの、「エクセルを印刷する」特集だったとか。
それにしても、どうしてエクセルでワープロ? ワードを使えばいいじゃん。
「うちの嫁さんもエクセルでワープロやってるよ。テキストをマス目にはめ込んでいけばいいから、全体のレイアウトを作りやすいんだって」
「でもエクセルだと長いテキストは書けないじゃない」
「だからさ、長い文章を作る人はエクセルなんか使わないんだよ。普通の人が書く文章量程度なら、エクセルで十分」
「そういえば、どこかの企業で社内文書のテンプレートをエクセルで配布したら、次の日に問い合わせが山のように来たって。そのほとんどは『どうやって次のセルに移らないで改行できるのですか?』って内容」
「ははあ、Alt+Enterを知らなかったわけだ。エクセルでワープロする際の基本動作だね」
エクセルワープロ派の人たちにとって、ワードは画像のはめ込みやテキストの流し込みなどの動作に曖昧な部分があるのが許せないらしい。
ちなみに、エクセルでワープロなどという妙な使い方をしているのは、日本人だけだという。いやそもそも、欧米では「エクセル系」などというジャンルのパソコン雑誌さえ存在しないのだ。日本人は世界でもたぐいまれなほどにエクセルが好きなようだ。
やっぱり日本人は、自分をマス目にはめ込んでいくことに気持ちよさを感じてしまうのだろうか?——というステレオタイプな文化人類学的分析をするのは簡単なのだが。
20030603
楽天に取材。
星の数ほどあるインターネットビジネス業界にあって、この会社が何の紆余曲折もなく順当に成長してきた希有な存在であることは間違いない。大宅文庫で楽天の雑誌記事を漁ってみても、その成功ぶりへの揶揄や批判こそあれ、内在的な問題や不祥事を暴いた記事がほとんどないことに驚かされる。
昨年、大批判を浴びた料金体制の変更——月額五万円の固定料金から、売り上げの二〜三%の従量制料金への移行についても、蓋を開けてみれば、大きな問題にはならなかった。
注目はされているけれど、でもまあ雑誌的にはあまりおもしろい企業ではないなあと思ったりする。だってつっこみどころが少ない企業って、書くことがないじゃないですか。
最大の謎は、この会社が「勝ち組」となった本当の理由はどこにあるのだろうかということだ。先行者メリットで片づけるのは簡単だが、それだけで勝ち続けられるほど日本のインターネットユーザー、インターネット業界が甘いとも思えない。経営陣が興銀出身ということに何らかの引っかかりがあるのか?とも思ったが、特にそれが大きな力として働いたわけでもなさそうだ。
ちなみに同社の社訓のようなものには、「ビジネスのプロフェッショナル」という言葉が掲げてある。雲霞のように出現し、雲霞のように消滅したビットバレーへの強烈なアンチテーゼだろう。あのグループにいた連中は、みんなどこへ消えてしまったのだろうか?
そういえばビットバレーの最右翼のひとりだったエッジ(旧オン・ザ・エッヂ)の堀江貴文社長は、以前インタビューした際、いつもの傲岸不遜な表情でこう言いはなっていた。
「カスみたいな連中もたくさんいましたね。あんなのとは一緒にしないでもらえます?」
20030601
犬を飼いはじめて、さまざまな発見があった。春からは散歩にも出るようになり、いろんな飼い主に会うようになった。
おもしろいなあと思ったのは、犬に対して幼児語を使う人がすごく多いことだ。
市ヶ谷のお屋敷街でときどき出会う品のいい初老の婦人は、最初に会ったときうちの犬を抱き上げてニコニコ笑いながら言った。
「ああら、まだ小さいからホントは散歩に出ちゃいけないんでしゅよ」
なぜ犬に言うんだろうなあと思いながら、
「もう生後三か月を過ぎてワクチンも終わったので、散歩は大丈夫なんです」
と説明した。そうしたら婦人は、再びうちの犬に向かって、
「ああら、大丈夫なんでしゅか」
って言ったのだった。
犬を連れた人と散歩中に会って、立ち話をすることがある。別れ際になると、半数近い人が「バイバイね〜」と犬に向かって挨拶する。残りの人は「ありがとうございました」って、飼い主に向かってお礼を言う。何のお礼なのか、いまだによくわからない。でも別れの挨拶としてはとても言いやすい言葉なので、最近はこっちも「ありがとうございました」って言うようにしている。
駒沢公園のドッグランでは、他人が抱いている子犬に、自分の犬が飛びかかろうとしているのを見て、
「だっこされてる子は休憩中の子なんでしゅ! だから遊んじゃダメなんでしゅ!」
って言葉で説得しようと必死になっている女性を見た。そんなことを説明されても犬も困るだろう。
犬になぜ幼児語を使うかと言えば、そりゃ犬を擬人化しているからに決まってる。でもなぜ擬人化するのが変に見えるのだろう? かわいい家族の一員なんだから、乳幼児と同じように扱ったっていいじゃないか。
でも、もうひとつ不思議なこと。
犬のしつけの本を読むと、「子供のように愛情を注ぎなさい」なんてことはあまり書いてない。どの本にも「愛情は大事だが、もっと大事なのは飼い主と自分のどちらが主人かを思い知らせることだ」などといったことがしつこいほどに書いてある。一緒の布団で寝たり、一緒にご飯を食べたりするなんていうのはとんでもないらしい。
だから犬の擬人化と、きちんとした犬の教育——そのふたつは両立しない。
ひょっとしたら、両立しないからこそせめてもの愛情の発露として、幼児語を使うんだろうか?
20030530

ダイオキシン問題の取材で、駒場の東大生産技術研究所へ。総工費二百億円という大仰な建物に驚いた。エレベータ部分と本体部分が分離しているあの建物構造には、何か深い意味があるのだろうか?
それはともかく。
嵐のようなダイオキシン報道から三年が経ち、ダイオキシン問題は環境ホルモンともどもすっかり風化してしまった感もあった。ある市民運動関係者は「土壌汚染のネタをマスコミに持ち込んでも、『ちょっと弱いなあ。もっと強烈なのはないの?』って断られてしまう」と愚痴っていたほどだ。
そこへ突如として登場したのが、「ダイオキシン——神話の終焉(おわり)」という刺激的な書物。日本評論社から刊行されたこの本の要点は、以下のようなものだ。
(1)市民運動は「ダイオキシンの毒性はサリンの二倍、青酸カリの千倍」といった表現で恐怖をあおってきたが、ダイオキシンには急性毒性はない。
(2)ダイオキシンは焼却炉に起因すると市民運動は指摘してきたが、横浜国立大の益永、中西両教授らの研究によって、ダイオキシンの大部分は一九七〇年代に散布された農薬に起因するものであることが判明している。その証拠に、日本人女性の母乳に含まれるダイオキシンは八〇年代以降、一貫して減り続けている。もし焼却炉起因なら、増えていなければおかしいではないか。
(3)従って、いくら焼却炉をハイテク化してダイオキシンの排出を抑制しても、ダイオキシンの総量を減らすことはできない。ばく大なカネを使って全国の自治体の焼却炉をハイテク化しようとしたダイオキシン特別措置法は、予算の無駄遣い以外の何者でもない。
(4)そもそもダイオキシンは自然界にもとから存在するものであって、ゼロにすることはできない。環境保護はリスクとベネフィットのバランスの観点からマネジメントとして考えるべきであって、何でもかんでもゼロにしようという考え方は間違っている。
著者サイド、市民運動サイドの双方から取材して感じたのは、日本という社会の「振り幅」の大きさだ。この書物は説得力もあり、オールドメディア的には無謬とされてしまっている環境保護運動への痛烈な批判にもなっている。
しかしかつて、市民運動がダイオキシン運動を大きく盛り上げて世論を反焼却炉へと振れさせ、法制定にまで持ち込ませた大きな「振り幅」と同じように、この本が逆の「振り幅」を起こさせないかという危惧はある。金科玉条のようにこの本を振りかざし、「だからダイオキシン対策なんか要らないんだ」と嬉しそうに叫ぶ保守系議員、ってのがわらわらと現れそうじゃないですか(いや、実際にそういう事態が生じつつあるという指摘はすでにある)。
本当はこうした本が出ることで、きちんとした論議がさらに進む——というのがあるべき姿じゃないかと思うのだけど。そんなことを期待する方が間違ってたりして?